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自分を卑下することについて

2017年12月09日 22:23

この記事は自分と、この記事を読んでいるあなたに捧げる。

結論から言おう。
自分を卑下するのをやめよう。
自分を卑下することには何のメリットもないからだ。
メリットがないどころか、自己卑下は自分に対する暴力であり、単純にデメリットだ。
もしこれを読むあなたに積極的に明日を生きる意志はなかったとしても、わたしは同じことを繰り返して言いたい。

たとえ明日死ぬ身だとしても、あなたには不当な暴力にさらされる謂われはないのだから。
たとえ何ももっていなかったとしても、殴られる理由にはならないのだから。
どうせ死ぬなら、笑って死にたいじゃないか。



卑下は謙遜ではない

これを読んでいるあなたは、おそらく謙虚な人物なのだと思う。
そして自分に自信がないはずだ。
「自分に自信がないから結果として謙虚に振る舞っているだけなんだ」とあなたは言うかも知れない。
ここでもう1回目の卑下が行われていることにあなたは自覚的だろうか?

卑下と謙遜は違う。
このことはわたしもよく分かっていなかったし、いまでも時々履き違えていることもある。
だがこの二つは明確に違うということを言っておきたい。

仮に、何らかの功績あるいは素質を、誰かに称賛されたり羨望の目で見られた時を想像して欲しい。
あなたは自分の振る舞いが傲慢になることを何よりも恐れている。

あなたははにかみながら
「言ってもらったような美点はわたしには実際存在しません」
「そんな大したものではありません」
「そんな素質があっても何の役にも立たないんですよ」
概ねそういう主旨の返答をしている。
何ならそれに付け加えて「自分なんかゴミみたいなものですよ」とまで言うかも知れない。

あなたは自分の振る舞いが傲慢になることを恐れるあまり、自分のことを殴り、踏みにじる。

謙遜に必要なのは、称賛を撥ね付け、自分を踏みにじることではない。
謙遜に必要なのは、称賛から得た自信や名声で、他人にマウントしないことだけだ。



称賛は受け取っても良い

あなたはひとから褒められることにまったく慣れていない。
そのせいで、賞賛の言葉を受け取ることすら傲慢だと断じてしまう。
断じてしまうかも知れないが断じてそれはちがう。

何もないところに称賛は贈られない。
何もないところに称賛が贈られることもあると思ったあなたは、他人に向って心にもない形だけの賞賛を贈るのをやめるべきだ。それもあなたを損ない、内面を傷つける行為の一つだ。あなたは嘘を吐くときに自分を卑劣だと感じている。

あなたが賞賛を贈られたのはそれに値する何かが、それがどのような程度かはともかく、あなたにあったからだ。
にも拘らず「実感が湧かない」と言う理由であなたは受け取りを拒否するだろう。
だが、控えめな人間については特に、実感は受け取った後にしかついてこない。
実感が終に湧かなかったら、忘れたらいい。
だから、はじめは実感が湧かなくとも、一応とっておくくらいの気持ちで、あなたに向けられた称賛をあなたの内側に招き入れて欲しい。

あなたがそうすることで相手はあなたのことを「傲慢な奴だ」などとは思わない。
もし思う奴がいるのなら、そいつは内面を損なっている。彼が贈るのは嘘の称賛だからだ。

たとえあなたが受け取ったものが嘘の称賛であったとしても、その可能生についてあなたは思い悩む必要はない。
あなたは受け取った嘘の称賛を、自分のものにすることで本物にできる。
卑劣な嘘吐き共を見返してやれ。



弱さは殴る理由にならない

あなたは自分を殴ることについて何ら良心の呵責を覚えない。
それどころか自分を手酷く殴りつけるたびに安心を得ているかも知れない。
他人に対する暴力ではないから、そのことで誰にも迷惑をかけていないから。

果たして本当にそうだろうか。

あなたはあなた自身の持つ自己を客観的に見るすぐれた能力であなた自身を評価している。
その上であなたに自信がないのは、自分自身の弱さのせいだと思っている。
能力がない、才能がない。だからゴミだ、死んだ方がいい。

弱さこそが悪、それが正しいならまず赤ん坊から死ぬべきだとは思わないか?
「その通りだ、だから生まれてこない方がよかった」
あなたは自分だけを殴っているつもりかも知れないが、このとき、あなたと最も境遇も心情も近い同胞が殴られている。

あなたは殴ったつもりなどない。だが彼らはあなたと同じくらいに弱い。
自分を害して貶める言葉は容易に彼らの内面に侵入し蝕む。
彼らと書いたが、これは主にあなただ。

赤ん坊の話に戻るが、心の底から上のようなことを言っていたとしても、きっと実際のあなたは、赤ん坊のように無力な存在を弱いという理由だけで殴る人間のことを卑劣だと罵るに違いない。

人の弱さを目にしたときに、自分がどのように振る舞っているか思い出して欲しい。
弱さは攻撃の成功可能性である一方で、保護されるべき・いたわられるべきものという側面をもっている。
あなたはそのことをすでに知っているはずだ。



自分の力を損なうな

我々には理想の自分のヴィジョンがあり、それが自分を自分で殴る原因の一つとなっている。
理想に追いついていない自分は無価値だと、追いつけない自分は無力だと言って殴るのだが、その度に殴られた方の自分はその理想に追いつく力を次第に減じている。

しかし理想があり、嫉妬があるとき、殴られた方の自分はまさに立ち上がろうとしている。
それなにの、予想できない失敗を、芳しくない成果を恐れて、自分自身に立ち上がることをすら禁じるのが卑下なのだ。

「どうせお前にはできない」
「はじめから無理に決まっている」
「やるだけ無駄だ」

これらの言葉はあなたのオリジナルではない。
あなたの周りの卑劣な人間たちが、あなたの強くなることを恐れてかけ続けてきただけの、臆病な言葉に過ぎない。

偉大な功績を上げられないのならゼロだ、いやむしろ無駄になった時間の分マイナスだ、という気持ちは、偉大な理想を設定した自分が、偉大な理想で、起き上がろうとしている自分にマウントしているのだ。
最初に述べたように、これこそが「傲慢」だとわたしは思う。

あなたを貶める卑劣な奴らに加担してはいけない。



自分を少し放っておけ

殴られる自分に、本当に殴られるに値する理由があるのか?

卑下が口を衝いて出るその一瞬前に可能な限り考えて欲しい。
殴られる自分には理由がなく、殴る自分にしか理由がないようなら…そのときはどうか心を折る言葉をぐっとこらえて、殴られる自分から目を逸らして欲しい。

称賛も受け入れなくていい。
ただ相手に押し返したりせずに、聞き流して欲しい。

あなた自身が他人に対してまさしくそうであるように、自分に対しても謙虚に接してあげて欲しい。
たとえあなたには誇れるものが何もなかったとしても、それはあなたが殴られる理由にはならない。

自己を無理矢理肯定しなくてもいい。ただし、否定もなしにして欲しい。
ただ放っておいて、時々何処に向っているのか確認するだけでいい。
「こいつは一体何なんだろう?」と思いながらぼんやり眺めておいて欲しい。
それだけでも驚くべきことは起こる。起こるはずだ。

この世は他人など信じるに値しないかも知れないが、あなたにとってのあなた自身は別だ。
殴るあなたは、殴られるあなたのことをまだ信じていないかも知れない。

それでも殴られている方のあなたは、殴るあなたが否定の手を止めて、自分に歩くことを許してくれる日を、もっと望むならそのそばに寄り添って励ましてくれるその日を信じている。

それが死にたくても生きている理由の一つなのだと思う。



かみつきくんB
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広告というものについて

2015年06月06日 21:36

本日は暑すぎず雨も降らずよい天気で、兵庫の海の見えるエリアに行ってきました。
仕事なんだけど、役得と言うかとても楽ちんちんで、このところ磨り減り続けてささくれまくっていた精神が、少しだけ安らいだような気がします。

海の見えるエリアで、利用者さんと弁当を食べたのですが、そのときにその方が持っていたペットボトルを見たときにすごい引力を感じるんですね。

CGye_N2UcAEQdqX.jpg

こんなペットボトル見たことねえよと、いやその顔にはすごく見覚えがあるんだ。何処で見つけてくるんだよと。それを今日ここに敢えてお茶を再充填したものを持ってくるのは何故なんだと。
このペットボトルの存在確率はもう存在してしまったから1として、その後に続く選択の確率をかけていくと、これはもう奇跡と言っても過言ではないと思うんですよね。
↗︎の画像はそれで思わず「ちょっとお借りして宜しいか」とお借りして写真に収めたものです。
どうですか、なかなかパワ!を感じるいいペットボトルなのではないでしょうか。

この顔、他の地域ではどうなのかわかりませんが、近畿では駅とかで忘れた頃に再び見るような顔で、Aくんと歩いてるときにも見たことがありました。

「何故よりによってあの顔をホテルの広告に使おうと思ったのか。馬鹿なのか」

とAくんがとてもとても嬉しそうに言っていた顔がまぶたの裏に浮かんで、とても懐かしい気持ちになりました。
ホテルの広告って基本的に無機質な感じで、生き物の気配を感じないものが多いと、個人的に印象を持っています。
ブライダル系のキャンペーンとかで人が写ってるのもありますが、あとディナーとかのでシェフが写ってるのとかもありますね、基本的にそういうのって「泊まる」こととは少し離れたもので、宿泊する部屋の中で人がくつろいでいる様子を描いた広告って今まで見たことないんですよね。

「泊まる」ことがメインであるならそれは広告を見た「あなた」こそがそこに行くべきなのであって、写真の中にも先客はいらない、とかそういうことなんでしょうか。
前に泊まっていた人の痕跡とか、基本残したがらないですしね。客にはあたかも初めて使われる部屋のような体で鍵と一緒に引き渡す、みたいな。

アパホテルの広告は、そのあたりの業界が離れられない「エレガンス」というコンセプトから単独で2世紀分くらい跳躍して、泊まり客には物凄くどうでもいい誰だかよく分からん年配女性が浮かべる薄笑いを「これでどうだ」と言わんばかりにウワアアアアアアって突きつけてくるんですね。
もう普通の人は恐れ入ってその得体の知れないパワの前におののき、震えながらその場を立ち去った後で自分の脳裏に「アパホテル」という単語が永遠に刻まれてしまったことを確認するのみなのです。
「名前を知ってもらう」という戦略において、これは成功と呼ばざるを得ない。

全国展開している何処のアパホテルに泊まっても「あの顔」の庇護のもとですべてのカスタマーは眠りにつくのです。そういう影響力を持った強い広告なんです。
強過ぎると言ってもいい。今の人類には強過ぎる力です。

ホテル広告として飛び抜けて異質でありインパクトは他の追随を許さない。とはいえ、やはり僕もAくんがかつて言ったように正直どうかとも思います。顔を使うならもうちょっと表情はなかったのかと思います。

それでも今日、この顔を目にしたとき、僕の心は浮き立ちました。思い出深い顔でもあるから。僕は、この広告としてのこの顔が好きです。街中で見かけるたびに「まだ使ってるのかよ」と、そしてAくんの嬉しそうな顔を思い出して、僕の顔に押し殺されたニヤけ笑いが浮かぶことでしょう。

ここまで読んで下さいましたら、是非最後にもう一度、上の写真をご覧になっていってください。

もうカブトムシももりもり羽化してるらしい

2015年05月17日 19:32

五時間ぐらい外にいたらめっちゃ日焼けしてしまって、顔と両腕が赤い。
恥じ入ってるのかというくらい赤くて、シャワーを浴びる前から既にひりひりしている。

五月だがもう夏である。
虫も出てくる。
部屋の温度も上がるだろう。
寝苦しい夜が、はじまるのだ。

寒さというのは着込んだり布団の中に逃げたりといった対処ができるのだけど、暑さというものはもう場所を移動するかその空間の温度や湿度自体を下げるといったことをしないと、絶対に不快指数は下がらない。

その上、煩わしい吸血生物だ、ゴキブリの脅威だ、コバエの発生だ、腐敗もガンガン進む。
周りの生命が活発になると僕のような奴はそれに圧倒されてしまって、冬以上に何もできなくなってしまう。

汗をかくというのがそもそも不快で、そこから立ち上る自分のにおいも不快。
自傷レベルで身体を冷やすことにしか快を感じなくなる。

日の光を浴びたくない。

2015年05月17日 01:08

つまらないことで、あらゆることについてのモチベーションが下がる。
提出の異議があるのかないのかがあやふやな書類、もう既に提出期限を2週間は過ぎて居る。
焦るところなのかも知れないけど、手を付ける気が起きない。

結局、その書類を処理する人がすでに色々手一杯の状態で、チェックもまともにできておらず、「Bさんだけ書類の提出がまだなんだけど」って言われるのも、もう少し先の話だろう。

つまらんことでモチベーションがさがるので、同僚と二人きりになった時などにその話をすると、みんな優しいのかそれとも本当に彼らもそう思っているからなのか、同意の言葉が返ってくる。
なのにみんな律儀に提出してるんだなあ、と感心する。

先日、新人歓迎も兼ねた職場の飲み会があり参加してきたのだが、予想通りに後悔して帰ってきた。
場を支配することに喜びを覚える上司は、自分のそうした振る舞いや欲望について無自覚に見える。
歓迎されるはずの新人さんが、出汁にされているようにしか見えなくて、胸くそが悪かった。

どれくらいの人間が、あの空間を本当に楽しいと思っていたのだろう。
表情を見る限りは、楽しくなさそうだったり不快に思っている人もいないわけではなさそうだった。
なんで参加したんだろうと思う、僕も含めて。

くだらないことに体力や時間を割きたいとは思わない。
くだらないというのは、僕が喜ばないことに僕を犠牲にすることについてだ。
読みたい本も読まず、だらだらと大概は別に親しくもない、心を大きく寄せているでもない人間の書いた言葉を眺めて眠る。
読みたい言葉は、滅多に流れて来ない。
聴きたい声は聴ける見当がつかない。存命かどうかもあやふや。
きみはまだ僕のことを友人と思ってくれているだろうか。
きみが息をしてこの世界に存在していることをいつも祈っています。

僕は存外一人でも平気な人間らしく、日常に埋もれ始めるとあまり寂しいとかは感じなくなってくる。
それはそれで恵まれている。僕は恵まれている、なにかと。

先日、知り合いに紹介して貰って何度かお会いしている画家の先生にクロッキーのやり方を少し教えてもらえる機会があった。
まず鉛筆の削り方と持ち方から教えてもらった。中学高校では何も教えてもらってなかったんだなとわかった。
目で見たものを、自分が見えたように、紙に写していく作業は、続けていくうちにある感触をもたらす。

目で見て、まずここまでの線を引くというのを決めて、引く。
次に鉛筆の先は離さずに、ここからここまで、このカーブで、この角度でと決めて引く。
それをもう何度かやった後で、線に囲まれた空間ができる。
その空間と、実際目の前にある空間を見比べたときに、その形が僕の目から見て「ほぼ同じ」と言ってもいい瞬間が何度かあって、それにはかなり興奮した。

見えているままに描くのは難しい。
目を裏切って頭の中のものを勝手に手が描いてしまう。
その傾向を振り切って、目に忠実に身体が動いた痕跡が残ったとき、ものの見え方が少し変わった気がした。

大体4時間ほど。
持ってきたスケッチブックは、高校卒業以来長いこと白紙のページをそのままにしていた。
それをほぼ使い切っていた。

僕は昔から絵を描くと、紙面の真ん中にぽつんと描くことが多かった。
意識しないで描くとそうなる。上下左右の余白が勿体無いやつだ。
それも少しだけ変わった。スケッチブックからはみ出したものも少しはあった。

その帰り道、文具店で小さなクロッキー帳を買った。
寝る前に3枚描いて、その日は眠った。

次の日も描こうと思ったが、次の日も、その次の日も何を描き写したらいいのかわからなくて手を付けていない。

a misfit

2015年01月05日 03:59

まとまった言葉が出てこない。
もうここの所ずっと、何年もだ。
まとまった思考と言うものがないし、何かを思うことはあっても、すべてを後回しにしている、そんな調子。
当然、書くべきことなど見つけることもなく、書くべき価値も見出さない。
何かを目にして、何かは感じているはずなのに。
昔ほど、自分のこととして受け取っていないのかも知れない。

自分と言う人間のつまらなさや、傲慢な視線を自覚するとき、自覚していたかった環境(勿論そこには人も含まれる)は既にそこになく、「時既に遅し」、消費期限の切れた反省を手にして馬鹿みたいに突っ立っているだけだ。

何が変わったんだろうと思う。あるいは変わっていないのか。
自分の薄情さや浅薄さを多少の痛みを伴って(伴ったつもりで)実感できたことが、過去のその時から何回かあった、というだけなのかも知れない。
変わろうと思って変わるのは難しい。変わらずともなんとかやっていけるということに味を占めてしまうと尚更に。
目の前に食べ物があって、自分に強いて飢えを経験させることに、苦痛以上の意味がなかなか生まれないように。
停滞している。おそらく。

昔から何も変わっていないような気がする、と自省する人の言葉を読みながら、あるいは自分もそうであり、もっと悪いことに、昔と比べて失ってしまったものもあるのかも知れないと思う。
結局、楽な選択肢に逃げてきたことで、一定の安定を得たのだろう。運が良かった。そしてその選択について、似通った無理のない選択について、自分のも他人のも含めて「それでいいのだ」と言ってきた。
実際それでいいとも思う。自ら命を絶つことに比べたら何だってマシになる。

ただ、僕は自分の命を自分で絶つ、ということについて、明らかに昔ほど自分の問題としては考えていない。
無論、時折そうした感情に襲われることもあるが、僕は僕の弱い意志を以てそれを未遂に留め続けるだろう。
自分にとっての自殺という選択肢が、かなり現実から離れている。
これ自体は喜ぶべきことだろう。僕にとっても、僕が大事に思う人たちにとっても(これを読んでいる貴方も含まれるんですよ)。
けれどそのことで、僕は他者の抱える痛みについて、かつてほど自分の身に引きつけて考えることができなくなっているような気がしていて、そのことが歯がゆい。

他者の痛みに接近することによって、接近しようと努めることで、却ってその人にとって大事な領域まで侵すこともあるだろう、と今は考えている。それが真実なのか、自分が払うべき努力の量を弁解しているだけなのか、自分でもよく分かっていない。ここまで書いたこれのように混乱している。

混乱はある。だがかつてのような苦悩はないと言える。鈍感になって、ボンヤリしている感じだ。
いうべき言葉、するべき振る舞いがわからない。
ただ黙って、可能なら見ているということを伝えることで留まっていることが多い。

Aくんと一緒にベランダで煙草を吸っていた短い季節を思い出す。僕がベランダに出て洗濯物を干し始めると、Aくんの部屋から慌ただしい物音がして、間もなく煙草を持って彼がベランダに出てくる。その時の僕は「洗濯物干しはじめたところだぞ、嫌がらせか」と思いながらもそれに付き合ったりしていた。
ゲットーで吸う煙草は、特に話すことがなくても一緒にいる動機になる。自然に孤独を紛らわせることのできる小道具だったわけだ。
Aくんが死ぬ2週間前に僕は煙草をやめていた。僕に煙草をやめるよう、僕の身体を心配しての強い言葉があったからだ。僕をそうして心配してくれた素晴らしい人が、Aくんの死後そのことを「後悔している」と呟いた。僕の煙草をやめさせなければAくんはまだ生きていたんじゃないか、と。だけどその後悔はその人がすることじゃない。煙草なしでベランダに出なかった僕が悪い。彼の孤独や苦しみに無頓着だった僕が悪い。

そのとき学んだはずのことが、今になっても身についていない。

僕は、貴方たちのそばで、僕が息をして存在し続けることを、僕の意志でそうし続けることを伝えたい。けれど、今の自分にその説得力があるような気もしないし、具体的に僕の「そばに」という意志を具体的に実感してもらう為の術がもう全然分からない。

信頼するとか、信頼されるとか、とても難しい話だということが去年はよく分かった。
僕はどうやら他人あるいは「仲間」を信頼できないらしい。その件で首が飛ぶ一歩手前のところまで実は行っていたのだけど、不幸中の幸いで概ねことなきを得た。
ほっとしながらも釈然としないものが残っている。
僕が信頼できなかったその理由まさにそのものによって「概ねことなきを得た」という結果を得たからだ。
そしてその件を通して僕はある程度の信頼を失ったという。

そこでいう信頼とは「ある他者が自分の働きかけに対して、必ず善意で以て反応する」ということを「信じる」という意味で言われていたと思う。そして、僕がそれをできていなかったことについて「悲しい」というコメントがついてきた。
その時のやりとりの中で僕は自分自身のうちにある猜疑心について甚く反省したし、少しずつでも直していこう、少なくとも一人で抱え込む癖をどうにかしていこうと思った。その努力は今もしているつもりだ。

けれど相手が「必ず善意で以て反応する」なんてことは、相手が人間だということを勘定に入れると、価値観の違いもあれば立場の違いもあるし、到底期待できないと思ってしまう。
相手も僕も、表向き善意で反応はできるだろう。けれどいつか必ずどこかで、僕や相手はお互いの気持ちに嘘を吐かせることになるのではないか、と考えてしまう。

自分の気持ちに嘘を吐いてまで相手を傷つけまいとすること、それ自体がもはや善意ではないのかも知れない。相手を傷つけるかも知れないが正直に言った上で「私は貴方のそばにいたい」ということを伝えていかないといけないのだろう。傷つかない表現を選びながら正直に言うこともまったく不可能とまでは言わなくていいような気がする。
自分が送る言葉に配慮をする、ということ自体で敵対の意志がないことを伝えようとしているはずだ。たぶん。

こういうことを考えているということを確認すると、未だに自分が(割とよくやってるじゃないかと自己評価までしていても)社会不適合者、misfit の範疇に属していると言っていいのかなという気持ちになる。
けれども、そういい切ることに関して、苦しんでいる人の目の前でそういい切ることに関しては、後ろめたさを感じてしまう。
自分の立ち位置が、分からない。

貴方は僕を許すだろうか。それとも排斥するだろうか。
そもそも、許しなど請うべきではないのか。


かみつきくんB


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