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うんこ

2013年01月31日 00:10

毎日Aくんのこと考えてる割には月命日は割とすっ飛ばしてて、薄情と言うか。そんな思い詰めた感じではもう全然思い出さなくて、出勤と帰宅の大体30分くらいの中の何処かで彼のこと思い出すという感じ。大体悪い記憶じゃなくて楽しかった記憶がメインで、ベランダでアホ話していた頃の彼の特徴的な笑い方とか、お決まりのフレーズとか、そういうのを思い出してひとりでにやけてる。悪い記憶を思い出さないのは、自己防衛の為なのだろうと思う。無理に無垢であろう、誠実であろうとするより、開き直って人殺しの顔して生きることの方が楽なのだ、実際。社会的に断罪される立場でもないし、僕が自分のことを「人殺しだ(あるいはそれに近い屑)」と言ったところで、誰かに石を投げられるわけでもないのだから。どう頑張っても誰かや何かを搾取してこの生活様式を継続していくことになるのだし、聖人ぶるよか余程筋が通ってて楽なのだ。多少メランコリックに過ぎるところもあるけど。

彼が死んだ直後のあの熱にうかされたような流れ。多くの人が彼の死を悼んで、それを機につながりが出来たり決意が出来たりしたものの、今となっては日常性の陰に埋もれて、自分でもあの時はマジだったつもりだが今思うと彼を消費していたに過ぎないような気もしてくる。薄情ってのはその頃からやっぱりあったんだなあと再実感する。でも「自殺は絶対しない」と反面教師から学んだところはこれ自分の魂の自由を差し出してでも守らねばなるめえと思ってるし、死にたいながらも彼の死で何かを感じた人にもこれは押し付けたいと思っているところ。自殺。自殺。自殺。昔から僕らの心を捉えて離さない理解しがたき最も近しい隣人のようなアイデアに、何かしらの形で取り憑かれながら毎日生きている。僕は自殺しない、けど周りはわからない。みんな生きたがってそれが上手くいかないから死にたがってて、まるで天国と地獄の境目のリンボに居るみたいだな、と思ったらDMCをポチッてやってたんだ。

リンボという空間そのものが襲いかかってくる、というコンセプトをあのゲームがどれだけ上手く表現できてたかはわからんけども、みんなでリアルに生きてる(生かされてる)リンボに比べたら親切と言うか。「殺せ」「死ね」「止めろ」ってメッセージの後にそれを実行する悪魔たちが現れ出てくるのは非常にわかり易い。あのゲームのリンボはリンボというより地獄なのだ。地獄のわかり易さ。

でもリアルのリンボは「生きてて」という声と同時に「死ね」という声が聞こえて「ありがとう」という声と同時に「自己満野郎が」という声が聞こえてきたりして、常に僕は混乱させられててどっちに進んだらいいかすらもよくわからない。弱い僕は優しい声に対して強く反発したり疑ったりということに慣れていない為に、時に優しい声によって引き裂かれる感覚すら味わう。それがリンボの苦しみ。常に引き裂かれてしまっている。気持ちの問題がお金の問題と絡み合って余計にカオスだ。

お金の問題で思い出したので書いておくけど、何故買い物がストレス解消の手段として割と一般的に認められているか、について思ったことを書いておこうと思う。それは単純に自分の欲しいと思った物を自分の意志で自分の手元に置くことで、自分人生の主導権を一瞬でも「成就された選択」という成果で自分の手に取り戻すことができるからなのだと最近は考えている。言ってみればストレスというのは「自分以外の都合に振り回されること」そのもの、なのであって、お金は便利だけど自分を振り回してくるムカつく顔の一つだったりする。そういう自分を振り回す奴を捨てることで自分の人生の主導権がたとえ一瞬でも返ってくるのなら、「自分の欲しいもの」を「自分の為に」手に入れる限りで無駄な買い物というものはおそらく存在しないのだ。と自分に言い聞かせながら大量の飯を貪り、毎日大体決まった時間にうんこをする。

僕が毎日出来るものに積み重ねられるものが少ないなと思う今日この頃です。

かみつきくんB
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