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a misfit

2015年01月05日 03:59

まとまった言葉が出てこない。
もうここの所ずっと、何年もだ。
まとまった思考と言うものがないし、何かを思うことはあっても、すべてを後回しにしている、そんな調子。
当然、書くべきことなど見つけることもなく、書くべき価値も見出さない。
何かを目にして、何かは感じているはずなのに。
昔ほど、自分のこととして受け取っていないのかも知れない。

自分と言う人間のつまらなさや、傲慢な視線を自覚するとき、自覚していたかった環境(勿論そこには人も含まれる)は既にそこになく、「時既に遅し」、消費期限の切れた反省を手にして馬鹿みたいに突っ立っているだけだ。

何が変わったんだろうと思う。あるいは変わっていないのか。
自分の薄情さや浅薄さを多少の痛みを伴って(伴ったつもりで)実感できたことが、過去のその時から何回かあった、というだけなのかも知れない。
変わろうと思って変わるのは難しい。変わらずともなんとかやっていけるということに味を占めてしまうと尚更に。
目の前に食べ物があって、自分に強いて飢えを経験させることに、苦痛以上の意味がなかなか生まれないように。
停滞している。おそらく。

昔から何も変わっていないような気がする、と自省する人の言葉を読みながら、あるいは自分もそうであり、もっと悪いことに、昔と比べて失ってしまったものもあるのかも知れないと思う。
結局、楽な選択肢に逃げてきたことで、一定の安定を得たのだろう。運が良かった。そしてその選択について、似通った無理のない選択について、自分のも他人のも含めて「それでいいのだ」と言ってきた。
実際それでいいとも思う。自ら命を絶つことに比べたら何だってマシになる。

ただ、僕は自分の命を自分で絶つ、ということについて、明らかに昔ほど自分の問題としては考えていない。
無論、時折そうした感情に襲われることもあるが、僕は僕の弱い意志を以てそれを未遂に留め続けるだろう。
自分にとっての自殺という選択肢が、かなり現実から離れている。
これ自体は喜ぶべきことだろう。僕にとっても、僕が大事に思う人たちにとっても(これを読んでいる貴方も含まれるんですよ)。
けれどそのことで、僕は他者の抱える痛みについて、かつてほど自分の身に引きつけて考えることができなくなっているような気がしていて、そのことが歯がゆい。

他者の痛みに接近することによって、接近しようと努めることで、却ってその人にとって大事な領域まで侵すこともあるだろう、と今は考えている。それが真実なのか、自分が払うべき努力の量を弁解しているだけなのか、自分でもよく分かっていない。ここまで書いたこれのように混乱している。

混乱はある。だがかつてのような苦悩はないと言える。鈍感になって、ボンヤリしている感じだ。
いうべき言葉、するべき振る舞いがわからない。
ただ黙って、可能なら見ているということを伝えることで留まっていることが多い。

Aくんと一緒にベランダで煙草を吸っていた短い季節を思い出す。僕がベランダに出て洗濯物を干し始めると、Aくんの部屋から慌ただしい物音がして、間もなく煙草を持って彼がベランダに出てくる。その時の僕は「洗濯物干しはじめたところだぞ、嫌がらせか」と思いながらもそれに付き合ったりしていた。
ゲットーで吸う煙草は、特に話すことがなくても一緒にいる動機になる。自然に孤独を紛らわせることのできる小道具だったわけだ。
Aくんが死ぬ2週間前に僕は煙草をやめていた。僕に煙草をやめるよう、僕の身体を心配しての強い言葉があったからだ。僕をそうして心配してくれた素晴らしい人が、Aくんの死後そのことを「後悔している」と呟いた。僕の煙草をやめさせなければAくんはまだ生きていたんじゃないか、と。だけどその後悔はその人がすることじゃない。煙草なしでベランダに出なかった僕が悪い。彼の孤独や苦しみに無頓着だった僕が悪い。

そのとき学んだはずのことが、今になっても身についていない。

僕は、貴方たちのそばで、僕が息をして存在し続けることを、僕の意志でそうし続けることを伝えたい。けれど、今の自分にその説得力があるような気もしないし、具体的に僕の「そばに」という意志を具体的に実感してもらう為の術がもう全然分からない。

信頼するとか、信頼されるとか、とても難しい話だということが去年はよく分かった。
僕はどうやら他人あるいは「仲間」を信頼できないらしい。その件で首が飛ぶ一歩手前のところまで実は行っていたのだけど、不幸中の幸いで概ねことなきを得た。
ほっとしながらも釈然としないものが残っている。
僕が信頼できなかったその理由まさにそのものによって「概ねことなきを得た」という結果を得たからだ。
そしてその件を通して僕はある程度の信頼を失ったという。

そこでいう信頼とは「ある他者が自分の働きかけに対して、必ず善意で以て反応する」ということを「信じる」という意味で言われていたと思う。そして、僕がそれをできていなかったことについて「悲しい」というコメントがついてきた。
その時のやりとりの中で僕は自分自身のうちにある猜疑心について甚く反省したし、少しずつでも直していこう、少なくとも一人で抱え込む癖をどうにかしていこうと思った。その努力は今もしているつもりだ。

けれど相手が「必ず善意で以て反応する」なんてことは、相手が人間だということを勘定に入れると、価値観の違いもあれば立場の違いもあるし、到底期待できないと思ってしまう。
相手も僕も、表向き善意で反応はできるだろう。けれどいつか必ずどこかで、僕や相手はお互いの気持ちに嘘を吐かせることになるのではないか、と考えてしまう。

自分の気持ちに嘘を吐いてまで相手を傷つけまいとすること、それ自体がもはや善意ではないのかも知れない。相手を傷つけるかも知れないが正直に言った上で「私は貴方のそばにいたい」ということを伝えていかないといけないのだろう。傷つかない表現を選びながら正直に言うこともまったく不可能とまでは言わなくていいような気がする。
自分が送る言葉に配慮をする、ということ自体で敵対の意志がないことを伝えようとしているはずだ。たぶん。

こういうことを考えているということを確認すると、未だに自分が(割とよくやってるじゃないかと自己評価までしていても)社会不適合者、misfit の範疇に属していると言っていいのかなという気持ちになる。
けれども、そういい切ることに関して、苦しんでいる人の目の前でそういい切ることに関しては、後ろめたさを感じてしまう。
自分の立ち位置が、分からない。

貴方は僕を許すだろうか。それとも排斥するだろうか。
そもそも、許しなど請うべきではないのか。


かみつきくんB
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